last updated 1997/05/17
第2話(全130話)
母さんの童話 (1/2)
第一章 旅立ち
1 母さんの童話
冷たい風から守ってくれていた楡の幹からそっと身体を起こすと、眼下に彼の暮らすランプ
ーンの街と、カフェオレ・ボールの形に湾曲した港と、夜明け前の淡い紫色したヴェールに包
まれた海が見下ろせた。夜中を過ぎた時刻からこの丘にピートはひとり、座り続けていた。新
しい朝がはじまる瞬間、何か特別な魔法が自分を包むのだと、そんな予感が胸に疼いていたせ
いだ。
母さんが書類を束ねる時に使う大きめの輪ゴムを頭につけ、ゴムとおでこの間に手提げ式の
ランプを挟み込んで、その明かりで彼は同じ物語を何度も何度も読み返していた。本といって
もタイトルはまだ付いていない。挿し絵はもちろん、表紙すらなかった。だからこの物語の作
者が誰なのか、といったこともまったく記されてはいなかった。けれどピートはこの物語を紡
いでいるのが誰なのかよく知っていた。それはマリイア、彼の母親だ。そう、ピートのお母さ
んは童話作家だった。手にしているのは、そのマリイアが書きはじめたばかりの新しい物語の
タイプ原稿。まだ顔を寄せれば真新しいインクの香りが鼻をつく。マリイアの枕元にあったそ
の原稿の束をピートはこっそりと持ち出してきていた。いままでもそうだったように、この新
しい物語の最初の読者でありたかった。ピートはマリイアの紡ぐ物語をパンやスープと一緒に
食べ、消化し、心と身体の栄養として育ってきた。いまではかなりの人気作家となったマリイ
アの物語は世界中の言葉に翻訳され、世界中の子供たちの瞳を輝かせている。けれど、まだ表
紙もついていない段階で、母の吐息を宿したままの物語に触れられるのは、世界でただひとり
、自分だけなのだと信じていた。それが成績もパッとせず、スポーツだっていつもチームのお
荷物になっているピートの唯一の誇りだった。自分のことではなく、自分の母親のことを「わ
が誇り」としているのはちょっと情けないと自分自身でもそう思うけれど、何ひとつ誇れるも
のがないよりはずっとましだとピートは自分に言い聞かせていた。
いま、まだ語りはじめられたばかりの物語を胸に抱いて、ピートはそれをこのまま破り捨て
てしまいたい衝動にかられていた。
ぼくは生まれてからこの方、まだ一度も街の外へ出たことがない。
ピートは思い詰めた表情でひとりごちた。
なのに、この物語はすぐにも編集者の手に渡り、印刷所へ送られ、綺麗な表紙と挿し絵で着
飾ってトラックや貨物列車や飛行機に乗って、世界の隅々まで旅をして行くことになる。ぼく
の行ったことのない国へ届き、ぼくの知らない言葉を話す子供たちが誕生日の贈り物として受
け取り、ぼくの知らない街の、ぼくの知らない家の中でパリパリとセロハンをはがすような微
かな音をさせながら、糊のきいた真新しいページを開くんだ。ぼくの行ったことのない風景の
中へと運ばれ、ぼくの歩いたことのない路地を歩き、ぼくの嗅いだことのない花の香りに包ま
れ、ぼくと出逢うことのない少女の腕に抱かれるんだ。
そういうことにピートは嫉妬した。アルファペットが並んでいるだけの紙切れに嫉妬するな
んて馬鹿みたいだ。そう思うけれど、ピートは出来ることなら母さんの紡いだ物語と共に、世
界の隅々を旅したかった。しかし彼は破き捨てる代わりに、マリイアの原稿を何度も何度も読
み返し、暗記してみようとする。
母さんの物語が、ぼくを誰も行ったことのない遥かな国へと連れて行ってくれる。
そう信じることで、篭に閉じ込められた小鳥のようだと、しょげてしまう自分を励ましてい
た。
(つづく)
Back Number
presented by son@ch-teo.com
Copyright(C)1997 FUJITSU LIMITED.
All Right Reserved.